1950年(昭和25)年7月に個人企業として独立し、現在の上村建設の第一歩を踏み出した。その当時、戦後の復興に湧く博多区吉塚の街は今のように車などは走っておらず、荷役の馬車と人が多く集まる場所だった。
自宅兼事務所だった叔父の家の2階には4人の社員が6畳一間に寝泊まりし、近くに住む實社長宅で食事をする生活だった。
ウエムラグループの成り立ちから今日までの歩みを紹介します。
上村建設は、昭和25年に上村實が福岡市に個人企業として創業しました。
創業当時から人のくらしを考え、誰もが快適にくらせる住まいの提供を大切にしています。
1950年(昭和25)年7月に個人企業として独立し、現在の上村建設の第一歩を踏み出した。その当時、戦後の復興に湧く博多区吉塚の街は今のように車などは走っておらず、荷役の馬車と人が多く集まる場所だった。
自宅兼事務所だった叔父の家の2階には4人の社員が6畳一間に寝泊まりし、近くに住む實社長宅で食事をする生活だった。
1959年(昭和34)年2月18日に粕屋郡粕屋町吉田に本社を移転し、有限会社上村建設を設立。移転した当時は当然、今のように街になってはおらず、農地の広がる地域だった。
ここに約800坪の事務所兼倉庫を構えた。(現在は3000坪に増やし、ミスターマックス粕屋店に賃貸中)
1966年(昭和41)年11月17日に福岡市中央区大名に社屋を移転した。土地は福岡相互銀行(現、西日本シティ銀行)から、本社社屋兼賃貸の鉄筋コンクリート造の上屋は住宅金融公庫(現、住宅金融支援 機構)からの融資を受けた。
そのころの大名地区は 今のように高い地価のつく場所ではなかったが、年商が4億円に満たない当時の状況では資金繰りが大変で、簡単ではなかったようだ。そんな中、昭和34年に起業して足掛け7年で福岡市中央区に5階建ての本社ビルを新築、移転した。
1983年(昭和58)年不動産管理課(初代課長:野田)を発足させた。当時、福岡市内や周辺市町村での賃貸住宅の建設需要は非常に高かった。特に福岡市南区の「塩原土地区画整理事業」は西鉄大橋駅と福岡市を南北に結ぶ県道を区域に入れたもので、駅中心の商業、住居併設型の区画整理事業となった。
空前の建設ラッシュと共に多くのビルオーナーから管理募集の代行業務が望まれた。当時は今と違って、施主による自主管理ビルが多く、不動産屋は単に客付けするのみだった。
1987(昭和62)年に本社を住吉4丁目に新築移転。
同じ地域で事業をする北九州運輸株式会社(現・株式会社ジェネック)との共有地で、土地利用についてさまざまな構想があったが、当時の福岡市の発展は目覚ましいものがあり、福岡市に支店や出張所を設置する企業が多くなったことから、最終的に駐車場付のオフィスビルを共同で建設することに決定した。
1996(平成8)年に不動産管理部門を分離独立し、ハッピーハウス株式会社を設立。人員体制は40名(役員5名、社員35名)でスタート。この時、管理戸数は既に1万戸を超えていた。
上村建設の成長=ハッピーハウスの成長であり、毎年着実な成長を遂げた。
会社設立40周年を迎え記念祝賀会を開催。時代はバブル崩壊後の信用収縮で地価の急激な下落、また、弊社の屋台骨であるアパート建築にも担保不足やアパート賃料相場の下降などの深刻な状況を生んでいた。
翌年の2000(平成12)年に上村實社長は会長へ。
上村秀敏社長の新体制となった。逆風の中でのスタートであった。
バブル崩壊後の景気低迷期の2001(平成13)年、企画型マンション「ステラ21」開発プロジェクトが発足。厳しい受注状況の中、今まで営業推進で手をつけてこなかった100坪程度の狭小地に着目。鉄筋コンクリート賃貸住宅を低コストで提供できれば木造アパートやプレハブ賃貸に必ず勝てるとの分析で6戸1商品のみでスタート。
以前の「効率化工法勉強会」、その後のハウスメーカーとの提携経験を生かしながら、開発プロジェクトを進めていった。この開発プロジェクトへの舵取りは、後の上村建設の受注高の安定に大きく貢献するものとなった。
上村建設は、着実に業績を上げ、地元福岡でナンバーワンゼネコンとしての地位を築いていった。平成14年には創業者の上村實会長が逝去するなど、大きな節目を迎えていた。
業績を落とすことなく、平成15年には国際規格ISO9001を取得し、標準的品質管理と顧客満足の向上を目的としたマネジメントシステムを構築した。